とるちゅのおと

コトノハノチカラ

「やまなし」について

 物語の冒頭、賢治はこの物語を「二枚の青い幻燈」だと紹介している。二枚に描かれた二つの場面には、それぞれ「一、五月」と「二、十二月」という題がつけられており、十二ヶ月の中から、五月と十二月の様子を切り取ったものだとわかる。では、なぜ五月と十二月だったのだろうか。

 「一、五月」の場面に登場するクランボンの正体については、様々な説が存在するが、定説といったものはない。しかし、クランボンの正体について曖昧なままこの作品を解釈することはできなかったので、自分なりの解釈をしてみようと思う。クランボンという音に着目せずに、どのような役割を果たしているかに着目することにする。そうすると、クランボンは、かぷかぷわらうものであり、跳ねるものであり、死ぬものであり、殺されるものである。クランボンが死ぬ(殺される)のは、魚が通ったときであるから、クランボンの死には魚が関係している。上流から戻ってきた魚が口を環のように円く開けているのは、プランクトンを捕食している描写と考える。蟹の兄弟の立場から見れば、プランクトンがわらったり跳ねたりすることはあり得ることである。そこで、クランボンはプランクトンであるという仮説を立ててみると、「一、五月」が、蟹の兄弟が、魚に食われるプランクトンと鳥に食われる魚を目撃する場面であることがわかる。表題になっている「やまなし」は、川底で蟹の兄弟が目にする壮絶な場面をよそに、この頃には美しい開花時期を迎えている。

 「二、十二月」の場面は、賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節、「北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」を連想させる。「やまなし」の結実は11月であるとのことなので、谷川に落下した「やまなし」は完熟したものであろう。その実がもたらす恵みが、諍いの空気を一変する。「やまなし」は食べられるために結実したのではないが、自然からの贈り物ともいえる果実から、動物はいのちをいただいて生きているのだ。

 賢治は、小さな谷川の十二ヶ月の中から、食物連鎖を象徴した五月の一場面と、豊穣の秋を象徴した十二月の一場面を切り取ったのである。そして、表題になっている「やまなし」は自然の象徴である。「私の幻燈はこれでおしまいであります。」とあるように、賢治はこのたった二つの場面を通して、自らの自然への想いのすべてを描ききったと考える。

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