とるちゅのおと

コトノハノチカラ

「氷河鼠の毛皮」について

 この作品は、大正十二年四月十五日に「岩手毎日新聞」に発表されたものである。掲載当時の時代背景から、この作品を「シベリア出兵の寓話」とする説もある。実際に賢治が物語の舞台設定において時代の空気から何らかの影響を受けていたであろうことは否定しないが、私は賢治の創作活動のテーマを「自然の一部としての人間」であると考えており、この作品についてもその視点から読み解いてみたい。

 冒頭から、「このおはなし」は「ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来た」ということがわかる。ベーリング行最大急行の出発を待つ停車場にいた「私」は、汽車には乗らず、「風の飛ばしてよこした切れ切れの報告」をつなぎあわせて、この物語を語っている。賢治は自然を、人間とその他の生き物とを俯瞰した存在として捉えていた。この語りの方法から、賢治が自然の視点からの物語を読者に伝えようとしていることがわかる。これは、『狼森と笊森、盗人森』で「黒坂森のまんなかの巨きな巖」が語り手であることや『鹿踊のはじまり』で「ざあざあ吹いていた風」が語り手であることに共通した方法である。

 停車場を離れてからの「おはなし」は、風が語ったものである。列車の乗客の中で、唯一楽しそうに描かれているのが若い船乗りの青年である。極北に向かう車中の乗客は、氷河鼠の毛皮でできた上着を身につけたタイチを始めとし、用意できる限りの防寒着を身につけて乗り込んでいる。タイチに至っては、過剰なまでの着込みようである。そのような中で、若い船乗りは黄色い帆布の上着一枚で口笛を吹いている。衣服は必要最低限で十分だと思っているかのようである。青年がポケットから取り出したナイフで窓ガラスについた氷を削り落とすと、美しい雪景色が現れる。青年は、月に話しかけているかのように、外を見つめながら笑うとも泣くともわからない様子で何かを口にしている。タイチともう一人の乗客が防寒着のことで諍いを始めても、月とオリオンの空をじっとながめるばかりである。

 タイチの旅の目的は、賭け事のための狩猟である。『注文の多い料理店』の紳士たちのように、生き物の命を奪うことに何のためらいもない。その証拠に、自分の氷河鼠の上着には四百五十疋の氷河鼠が使われていると豪語して憚らない。自分が手にしている品物が生き物の命と引き換えに作られていることを全く意に介さないタイチの言葉は、青年の耳には届かない。まるで発せられた言葉が通じないかのように、青年の反応はない。この場面は、あまりにも価値観の違う人間同士の会話が成立しないことを暗示しているかのようだ。

 そのとき、紅茶を運んできた白服のボーイが、青年の見つめる車窓の景色を見て、「まつくら」で「おばけが出さう」だとつぶやく。ボーイが白い服を身につけていることから、ボーイは神聖なものの象徴であるとも考えられる。人工の明かりの灯らない暗闇は自然そのものである。自然そのものの中で人間は無力だ。「おばけが出さう」という恐怖は、自然に対する恐怖とも言える。車内の景色や諍いに気を取られたり、自分の中に引きこもったり、眠ってしまったりして、車外の景色を決して意識しない人間たちは、暗闇の恐怖を忘れてしまっている。

 夜が明けて、物語は大きく展開する。白熊のような雪狐のような得体の知れないものたちが、車内に雪崩れ込んで来たのである。たくさんの生き物の毛皮を多用した衣服を何枚も身につけ、賭け事のために生き物を大量虐殺しに向かうタイチを成敗するためだ。同じ人間から見ても、全く良い所が描かれていないタイチを助けるのは、タイチの存在をまるで無視するかのように車窓を眺めていた帆布の青年である。熊のように見える侵入者たちに、共感を示し、歩み寄りを求める。青年がタイチに生きるための狩猟以外は控えるように云うことを条件に、事件は収束する。青年は、赤ひげの人に扮する北極狐の間諜も、ピストルと一緒に仲間たちのところへ返してやる。

 列車は再び走りだした。青年は、ずっと車窓を眺めていたから、熊たちが横にレールを敷いたことに気づいていたはずだ。列車はどこに向かっているのか。イーハトブの停車場から最大急行に乗り込んだ乗客は、赤ひげの人以外青年を含めて全員乗ったままである。青年はまた黙って窓の氷を削り、車窓を眺める。自分たちがどこへ向かうのかをしっかりと見定めようとしているかのようだ。風の飛ばしてきたお話はここまでであるから、列車がどこにたどり着いたのか、まだ走っているのかは誰にもわからない。

 黄色い帆布の上着を着た青年が、賢治の姿と重なってみえる。人間と争うことも自然に抗うこともなく、時代という名の急行列車に乗って、車窓からこの国の向かう未来をじっと見つめている。改めて、この作品が「雨ニモマケズ」を書いた賢治の作品なのだと思う。自然において、人間と他の生き物は対等であるのだから、人間と他の生き物が争うとき、「ツマラナイカラヤメロ」と言いたいのだ。タイチが青年に抱いた印象のように、「ホメラレモセズ クニモサレズ」、この青年のように「ワタシハナリタイ」との願いが込められた作品である。

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