とるちゅのおと

コトノハノチカラ

「鹿踊りのはじまり」について

 この物語の語り部である「わたし」は、眠っているときにこの話を風から教えられたとしている。「狼森と笊森、盗人森」が岩手山の巖を介して語られたように、風が語ったことを「わたし」が読者に語るという二重構造になっている。

 嘉十はおぢいさんたちとともにやってきた開墾者である。あるとき嘉十は栗の木から落ちて膝を悪くする。栗は里山を代表する樹木のひとつであるが、仏教においては仏様がおられる西方浄土へ杖になって導く聖なる木とされる。聖なる木に導かれるように嘉十は湯治のために山に入る。

 山中の嘉十は、鹿たちの言葉を人間の言葉を聞くかのように理解する。鹿たちの会話に引き込まれていく嘉十であるが、鹿たちと自分との違いを忘れ、融合しようとしたときには拒絶される。栗の木が与えたきっかけ(膝の怪我)によって、山に入った嘉十は人間と自然とが決して一体化できないことを思い知るのである。

 賢治の生まれ育った東北の自然は厳しく、自然災害にも見舞われることの多い地域である。自然は人間の都合に合わせてくれるものではない。人間は自然の一部でしかなく、ときに無力であることを賢治は痛感していた。自然は支配できるものでも人間と融合するものでもなく、畏れるべき対象なのである。

 風が語った鹿踊りの精神は、鹿踊りが決して人間の感情を表しているものではないということなのではなかろうか。鹿踊りが表現しているものは自然の有り様であり、踊りを見つめる/舞う人間は、ときに恵みを与えときに苦しみを与える自然を受け容れるかのように、静かな気持ちで鹿踊りと対峙しなければならないのである。

 自然がどれほど魅力的なものであっても、自然がどれほど身近なものであると感じても、決して超えてはならない一線があることを、風は教えている。

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